2006 8/16 2007 1/30 2008 3/15 2009 10/17 22 24 2013 3/7 3/11 4/4 08/04 更新
哥窯と名の付く窯はなかった?
今回もまた、哥窯についての、自由な推理です。お楽しみ下さい。
下はすべて黒哥窯の現代復古品です。元型は左2つ、唐 則天武后。中、玄宗です。右2つは宋の模様。
やはり鈞窯が主役
北宋 哥窯(か窯 可窯)のはじまりとは五代皇帝の末裔達の御用窯、柴氏鈞窯(仮称)だった。
北宋初期、柴氏の庇護を失い、都、開封から多くの柴の窯人は、中原の鈞に、移動した。
当時、350窯あったそうです。一大磁窯産地だったのでしょう。この中に、恐らくひとつだけ、後周王朝の末裔専用の窯が残された。
唐代にならうなら、柴氏鈞窯とでも呼びましょうか。
いわゆる、陶家と呼ばれる、秘密保持、厳格な法を守る、型作りの磁器だけを、旺命で作る窯があった。
そう考えるのが自然でしょう。唐代にも、特段、貫入磁器の窯が、存在しなかったように。今回はこのご説明を載せました。
徽宗期、口伝にある月に3つだけ献上される鈞窯こそ、、柴氏鈞窯なのでしょう。
その中に、貫入磁器もあったのでしょう。
名づけて柴氏鈞窯
左 周 右 五周柴窯 後の柴氏鈞窯
耳をもつ磁器は実は特別なものです。それは皇太子、王が被葬者であるからです。詳しくは法の解説まで。
はじめに、21世紀、知りうる貫入磁器を時代別に並べました。
唐代 宋代 貫入磁器で有名な哥窯という名のつく窯はなかった。
もちろん、南宋期、龍泉窯のご兄弟のお話は、最近の中国観光協会のPR、宣伝とお考えください。
南宋とすると、唐代(上左の2つ)の説明が出来ないし、南宋(右端龍泉窯)の貫入磁器とは、およそ異質のものが、多くある。
つまり、北宋(中2つ)の雰囲気、硬い、冷たい、法を厳守した物の、説明もつかない。
更に書くと、単色貫入磁器の徽宗官窯。その前後の変化も、説明できない。
隠された唐 喧伝される宋
推理としては明代中期、哥窯なる窯が創作された。東西交易はなやかなりし唐の隠蔽も目的。
明代、唐 五代 宋の多くの焼き物は、磁器庫に深くしまわれ、また、明末に、多くが、結果流出したと考える。
このとき、磁器の歴史は大きくゆがめられる。20世紀、前世紀までの、常識は、このとき作られた。
五代の幻の柴窯、宋代の定 汝 官 哥 鈞の五名窯のお話もこのとき、作られた。
宋、特に北宋は、磁器に関しても、そんな立派なものを作りません。なぜ?宋は王朝では、ないからです。
磁窯史再考 21世紀の発見
まず唐代 貫入磁器は、か夏鈞窯と呼ばれた。 (則天武后の子 中宗期)
世に名高い哥窯 金糸鉄線も、実は当時主力の窯、か夏鈞窯で、焼かれ、銘も入れられた。
唐代、素晴らしい貫入着色磁器も、副葬された。それら一群の磁器は後世、哥窯と呼ばれた。
金糸鉄線のほか、水割りの白哥窯、米色哥窯、玄宗期の黒哥窯と、貫入磁器オンパレードであった。
貫入磁器は、か夏鈞窯で焼かれた | (玄宗期) | ||||
星神鈞磁 | か夏鈞窯 中 金糸鉄線 右 米色 | 華芸鈞窯( 黒哥窯) | |||
柴氏鈞窯
鈞窯で焼かれた、貫入磁器。
宋代、哥窯と呼ばれる窯は存在しなかった。
それが一番自然に思える。貫入磁器は、悲しみの磁器。通常のゆう以外のスペシャルバージョンと云うこと。
これだけ、作れば、食べていける、そんな訳ではないのです。他に市販できませんから。
悲しみの貫入磁器。毎日、毎月、作り焼く物では、ないからです。
北宋 初期から徽宗まで | 北宋 徽宗期 | |||||
柴氏鈞窯 | 民間の鈞窯 | 柴氏鈞窯(郡官窯期) | 鈞郡官窯 | 徽宗官窯 | ||
黄柚の謎にせまりましょう
まずは、唐代の貫入磁器。 一番出来が良い。黄ゆう(右端)も、素晴らしい。
唐代 か夏鈞窯 米色と黄ゆう | |
形が、もう、ユニーク。ろくろじゃあ出来ないぞと、誇らしげです。
五代柴窯 のち 柴氏鈞窯の黄ゆう | ||
詳しく見ましょう
徽宗さんの好みではない貫入磁器 これを北宋第一期としましょう
旺のみにゆるされた黄柚 なぜ官の気持ちを遺訓から持てといわれながら焼いたのか
五代の末裔のため そう解釈すれば納得できます
柴も北宋哥窯も、はたまた徽宗官窯も、従来、優品を誰も目にした事はないのですから
まあ、自由な推論がゆるされる当HPですから、お許しください
宋代民窯期はどうも存在しなかったと長く考えておりました。
なにより厳格な型つくり 民窯ではこの点からまずなかったと思っておりました。
現在、同じ王朝の窯、南唐、呉越の秘色磁器との関連をもう一度、調べています。
すばらしい型つくり、支柱を使った目跡、角ばった姿などです。
月に3つの鈞窯は、誰のため?
このときから、前述 柴氏鈞窯にも変化が起きた。税収アップのための、各地産業、産品の、中央管理。つまり窯の統制。
財政的には、徽宗帝の時期は、国と、各地保守豪族との綱引きで、財政は、盛期に比し、ボロボロ。徽宗帝の道楽は、明代の捏造。
北宋は、もう財政的に破綻していた。徽宗さんが政治嫌いとか、戦略ミスで金に攻められたとか、後世の作文かもしれない。
汝が語るように、親、兄弟のともに皇帝が暗殺されるようでは、もう完全に国として終わっています。
では、誰が、誰の為に、下の磁器を焼いたのか?
五代後周の末裔。彼ら一族はあくまで旺。宋は、やむなく、国の運営を預かるというスタンスでした。たてまえとして。
徽宗帝の時代、鈞窯は郡官窯期を迎える。郡官窯とは、地方に、その運営主体があったということ。王権は非常に弱かった事も、汝は教える。
口伝に郡官窯では、宋の徽宗帝でさえ、月に3つしか、鈞窯に製作を命じることができなかった。
さて、徽宗期、口伝にある月に3つだけ献上される鈞窯こそ、、柴氏鈞窯なのでしょう。
なぜかというと、他では、これだけの旺品を作るの能力がないから。法と型作りは汝も上手ですが、黄色、赤色はない。
赤色は、宋では長く焼かれませんでした。皇帝の色なんでしょうね。徽宗さんが、初めて、焼かせます。
口の所のゆうは、薄くなり、試作品の雰囲気。十の文字は、郡官窯期に、見られるが、貫入は、初めて見る。
いずれ、多く焼かれる物では、ない。又、口に濃い茶のゆうを掛ける、徽宗さんの好みとも、思えない。
郡官窯初期には、まだ柴氏鈞窯は、鈞窯で貫入磁器を焼いたと思われる。
物証が、とぼしいといえばとぼしい。風変わりな焼き物が、また多いのです。
他の窯と、器形が普通リンクしない。土は鈞民窯期の悪いものから、精製の良いものまである。ゆうも透けがなくなる。変化も大きい。
なにより、その製法自体の着色、また底に飾りのゆう自体掛けたものもあり、土の判別が、まず難しい。
現在 Fudal Guan Kiln Ge Yao 郡官窯 哥窯と呼ばれています Ge、Yaoともに哥、窯の中国現代 表音です
しかし、このあとの貫入磁器は、ゆうの雰囲気がグッと変わります。べっとりとして、うえも、ゆうの透けがなくなる。
ぽかんと大きく口をあけた貫入磁器。これは徽宗さんの汝の窯ですね。これを明で復古します。となると、やっぱり、汝でしょうか。
貫入磁器は、このころ、汝で、わずかに作られた。そう考えます。
徽宗官窯の初めと終り 楽しい貫入磁器は、やがて、つらい寂しい、単貫入磁器に移ります。
徽宗官窯に見る貫入磁器
南宋 修内司窯
皇宋元年正月十六臨安府督造
やわらかい白磁 瀬戸の志野焼きのような肌合いに極細い薄い赤の貫入が入ります
国を興す祝いの気持ち きさきの帰らぬ悲しみ 貫入は悲しみの磁器です
この窯が貫入磁器の始まりとは、よく言ったものです。
2013/06/09
テレビ番組の種明かしをしましょう
哥窯の謎 歴代官品 旺品の類は清朝末期まで、その多くが、磁器庫に深くしまわれました。
ましてや、それら各時代のいわれ等、当サイトのお客様なら、もうご存知のはず。
外には、めったに出ない。ちょうど医者のカルテに相当します。
ある方のお話に哥窯の名が、宋代にも出ず、その焼き物も出土していない。
そうなんです。出る訳がないのです。
各王朝の秘話をはらんだ磁器は、通常、次の王朝により、旺墓、主要墓、すべてがあばかれます。
そして、分類、整理されます。外に、情報は、漏れ出ません。
では、なぜ、明代の書物にあると言うのでしょうか?
本当でしょうか? 不思議に思っておりました。
鄭和大航海を知らない明代皇帝
なんらかの事情により、つまり、大きくは唐代五代宋代の歴史歪曲、いんぺいが必要だった。
永楽帝の鄭和の世界大航海の皇帝へのいんぺい。この時期と思います。
左中 唐代 則天武后期 右 明代 従来元型不明でした
清代 復古
左から宋汝 中と右 清雍正帝復古 元型 宋汝と唐 太宗期 華宝きん窯
お疲れ様でした
詳しくはこちら
唐代 米色哥窯
左 南宋 右 唐代 とてもつややかに光ます
唐代がいかにダイナミックかつ野性味あふれるか分かります
又、これらの磁器の多くが愛らしいのはこの法の義と官が多い為です。
貫入の色々 金糸鉄線
唐代鈞窯
五代の名窯
鈞窯からみる徽宗期の磁器
可民窯可郡官窯
きん郡官窯 徽宗表の官窯
裏の官窯
汝窯から見る宋の磁磁
神宗期の汝宣仁太后の汝
(哲宗8歳) 哲宗(16歳から25歳)の汝 徽宗(20歳から26歳)の汝
Southern Song Dynasty Guan ware
南宋一覧 宋銘 修内司官窯 郊壇下官窯 粉青青磁 竜泉窯